2010年09月10日

「罪と罰〜幻と幽霊〜」※ひさびさの長文(笑

「罪と罰〜幻と幽霊〜」     朱時卍時

 幽霊を信じるか否か。という話題は、いつ頃からあるのか定かじゃないが、よく居酒屋なんかで話題にのぼる。特に夏場は多いが、この二一世紀の世にあってもそんな話題でもそこそこ盛り上がるのだから、人というのは根本的にここ数千年くらいじゃ変わっていないのかもしれない。
 こんな話題の時にはどうかすると「実は見える」なんていうヤツが現れることもあるが、そうなると周囲の人間はそいつの話をどの程度真実味があるか吟味し始める。まあ、その話を聞いて、それまでの自分の体験や認識と比べ、幽霊がいるかどうかを各々心中検証してみようというような心境で聞いたりするのだ[そして自分がそれらしい体験をしていたら、それをそいつの次に語ろうと心待ちにする]。その場合、たいてい三つの人間に分かれる。信じようと思うもの、信じてはいないが幽霊にいて欲しいと願うもの、全くもって信じていないもの。「罪と罰」の登場人物、アルカージイ・イワーノヴィチ・スヴィドリガイロフにとって「幽霊」は存在するもので、かれは「見える人」だった。
 彼が見る幽霊[プリヴィデーニエ]、マルファは彼の元妻で地主だった。たいそう金持ちで、革命に身を捧げるスヴィドリガイロフにとって、彼女との結婚はただ、その財産を得る手段にすぎなかった。憎むべき支配階級と戦うために金が必要だったのだ。だから彼はマルファを殺すとき躊躇しなかった。彼女の遺産を得るための殺人は、革命に必要な殺しのうちの一つにすぎなかったのだ。
 だが、彼はマルファを弔ったその日から、彼女の幽霊に出会うことになる。もっとも、出会ったところでそのマルファが彼に言うのは、食堂の時計を巻くのを忘れていましたね、とかそんな日常のささいなことなのだが。考えてもみて欲しい。この状況! なにもしていない人間が一見すると、こんな幽霊が出てきても別段怖い印象を受けないかもしれないが、彼にしたらちょっと前に自分が殺した相手が、平然と日常の会話をしてくるのだ。恨み言や、罵声を浴びせられるなら、まだ心の構えようもあろうが、そうじゃない。ただ、平然と、いそがしくって時計を巻くのを忘れましたね、とか、トランプ占いをしてやろうか、なんてことを話すのだ。これはたまったものじゃあないだろう。
 一方でこの話を聞いていた主人公、ロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフはスヴィドリガイロフに対して、幽霊見たなんて嘘じゃないの? 医者に診てもらったら? 誰が信じるかよ、と直接本人に言った挙げ句、心の中では「この男は気違いだ」と呟くのだから、まあ、ひどいものだ。だが、スヴィドリガイロフにそんな反応を示した彼も、心の底から幽霊を信じていないわけでもなさそうだ。いわば、スヴィドリガイロフを「見える人」で「信じている人」とするならば、彼は先に挙げた「信じていないけどいて欲しいと願う」タイプの人間だ。そのことはスヴィドリガイロフに、奇跡を信じているくせに認めない、なんて主旨のことを言われていることからも察することができる。また、彼が老婆アリョーナ殺しを決意するきっかけとなった「そっくりな思想を持つ将校」と偶然酒場で出会ったことを「不思議な暗号[運命]」として、捉えているところなんかは若干の神秘主義っぽさを感じる。
 それになにより、彼は、彼自身はそれを幻と呼ぶのかもしれないが、変なものをチラチラ見ているようだ。「幽霊が見えてるけど認めたくない」といったところか。もっとも、このような心理は巷にいる「見える人」にも働くようで、幽霊を見たとき、見えてるけど見えないふりとかをしたりするらしい。彼も、そうだったのだろうか。センナヤ広場で額づいた後、警察署へ行く途中、「一つの幻」がちらと目をかすめたのに彼はそれに驚く様子もなく、「そうあるはずのもの」として感じている。このシーンではそれまで見えていたが認めていなかったものを、いるものだと認めた印象を受ける。
 では、その彼が認めた「幻[ヴィデーニエ]」はなんだったのだろうか。その後、警察署を「運命の場所」と感じさせた幻。奇跡を信じていない人間がそれを信じるようになったという意味合いからは、その幻がイエス・キリストその人であったという考え方が一つ、できると思う。「流血を犯したにも関わらず罪の意識を持たない不信心のもの」ロジオンの信仰[あるいは善意]への回帰[目覚め]を暗示させる幻としてのキリストだ。また、おそらくはその幻とともにロジオンを背後から見つめていた、信心深き聖なる娼婦、ソフィヤ・セミョーノヴナ・マルメラードワの姿も、彼の進むべき道を照らす、女神のような存在であったかもしれない。いや、場合によっては彼女自身がひょっとするとキリストなのかもしれない。
 そうなると、物語の最後、罪の意識を獲得し、愛が何かを知ったロジオンが抱きついた膝の持ち主はただのソーニャではない可能性もある。キリストの御霊がソーニャの姿を借りて、彼に「救いと許し」を与えたのではないか。ソーニャの青白いとか、やせて頬がこけているとか、おずおずと手を差し出す様とかは、何となく磔刑に処されたキリスト像を思わせる。
 ロジオンの見た幻。スヴィドリガイロフの見た幽霊。この二つは端で見ている私たちからすればどっちも幽霊じゃん、ということにもなろうが、性質からすると少々異なるような気もする。スヴィドリガイロフのは直接的な表現としてはないものの、圧迫感を結果として与えているような気がしてしまう。一方でロジオンのものはどこか、導くような気配がする。この違いはなんだろうか。
 個人的にはこの差は信仰心に基づくもののような気がする。つまり、奇跡と神を信じた革命家は、その信仰心故に、心の底では、実は罪の意識に苛まれ、なき妻の亡霊を見たのではないか。もしかすると彼が見ていた幽霊こそ、幽霊ではなく、彼の潜在意識下の良心の呵責によって引き起こされた幻ではなかろうか。そして、信仰心無きロジオンの見た幻こそ、「人でなし[あるいは獣]」のロジオンを「人」へと導くべく現れた精霊、幽霊ではなかろうか。
 人は人であるが故に罪の意識によって罰せられる。罪の意識がなくして罪を犯すものは、それは人とは呼ばない。それこそ、ロジオンが持論の中で「しらみ」と軽蔑していた類の人間か、獣だろう。いわゆる人でなしだ。ただ、ロジオンはソーニャによって、キリストの霊によって救われた。老婆アリョーナを殺害した彼自身が「しらみ」に違いなかったが、自分を「しらみ」としり、そこから這いあがろうとした。獣や人でなし、「しらみ」から這いあがろうとするもの、それはもう、「人」なのだ。
 そう、「罪と罰」は「人でなし」が「人」になる話だと私は思う。ソーニャや他の登場人物によって、一匹の獣が人間になる話だ。あるいは、親切な幽霊によって悪い夢から目覚める話。「罪と罰」に現れた幻は今、この日本で増えつつあるロジオンが犯したような犯罪をどう思っているのだろう。


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posted by 朱時卍時 at 01:06| Comment(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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