2010年09月11日

「『罪と罰』神と革命と女」

「『罪と罰』〜神と革命と女〜」      朱時卍時


 殺人というものを考えたとき、人間の行う殺人には性質として大きく分ると四種類のものがあるように思う。まず、通常の殺人。これは怨恨、突発的な理由によるもので、個人間で行われる私的な殺人である。その次に、死刑という殺人がある。国の司法によって行われる殺人である。第三に、戦争状態での殺人である。殺すか殺されるかの状態でやむなく殺したり、国の命で殺めたくないものを殺めたり、いわば事実上の無法下での殺人。第四に、新たな政府として台頭、あるいは独立しようとするものの行う殺人である。これは、革命や独立運動の際に行われる殺人で、ある立場や集団を代表しての殺人といえる。
 つまりは、私的なもの、公のもの、無法のもの、公となろうとするものの殺人があると思われるのだが、このことを前提として考えたとき、「罪と罰」の主人公、ロジオン・ロマーノヴィチ・ラスコーリニコフが行った老婆アリョーナおよび、リザヴェータ殺しはどこに含まれるだろうか。
 形式で考えるなら、ロジオンの行った殺人は個人対個人のものであるから、先に述べた第一種のもの、個人間における私的な殺人ということとなろう。しかも彼には私的な、老婆アリョーナに「妹と別れる際に贈られた金の指輪」を質に入れた際の嫌悪感さえ抱いていた。だが、それの可能性だけだろうか。ロジオンが何か革命のあるいは独立の精神に基づいて殺人を犯した可能性はないだろうか。
 その場合重要になるのは彼の[あるいは彼と似た思想を酒場で話した将校の]思想におけるこの殺人がいったい何であったかということだ。
 彼の思想、「一つの犯罪は数千の善行によって償えるものではなかろうか」という考え方そのものは、物語中盤でスヴィドリガイロフがロジオンを「同志」と呼んだことからも分かるように極めて「革命」的な側面を強く持つ思想であることは明確だ。だが、それならば彼は一人で革命を行おうとしたのか、それによって老婆殺害を企てたのか。否。もし、彼がたとえ独力であろうとも革命を起こそうと思ったのなら、その「数千の善行」を先に考える。それも、漠然としたものではなく、具体的な内容を考える、いや考えざるを得ないだろう。そうでなければ革命後の民衆の支持を得ることができない。この点に置いて、ロジオンは曖昧な、何となくの善行しか考えてはいない。このことはロジオンがアリョーナ殺害後、手にした財産を持て余している様子からもうかがえる。
 作中で彼が行った殺人、それは「革命」上の殺人に見えなくもない、私的な殺人である。つまりは、革命であれば手段として用いられる殺人をロジオンは目的としてしまっていたともいえるだろう。
 ただ、興味深いのは、彼の思想の中にある「善意に照らして流血を認める」という一節だ。彼の友人、ラズミーヒンが指摘しているようにそれは非常に恐ろしい、法で流血を認める以上に恐ろしいことである。そんな「善意」を持った人間がどこにいようか。ロジオンにいわせればそれは「非凡人」であり、「天才」。そしてロジオン自身を示す、いや、示していたのだ。
 我々がロジオンのいう「善意」を持つものがいると仮定して、それがどんなものかと考えたとき、そんなものは神や仏の類であろうとたいていは思う。それならば、ロジオンはなんであろう。さしずめロジオンは自らを神であると盲信し老婆を殺した、ただの気違いだろうか。
 ただ、スヴィドリガイロフに指摘されたようにロジオンは奇跡や神を潜在的には信じている。信じてはいるが、彼はその存在を認めていないから「非凡人」や「天才」という言葉を代替的に使用したのだろう。認めてはいないものに自らを投影させて、殺人をもってしてそれに成り代わる資格があるかを自ら試したのだとしたら、それに何の意義があるだろう。単純な信仰の否定だろうか、あるいは潜在的な信仰心を復活させるための儀式だろうか。はじめは前者であったが、後に後者になってしまったのではないかと私は思う。
 古来、人間は潜在的な精神を解放せんがために生け贄を捧げてきた。古代アステカ文明しかり、アブラメリン魔術における処女の雌鶏の殺害しかり。現代において、魔術は無意識に働きかけて表層意識の活動を活発にしたり、抑制する効果のある、ある種の暗示や催眠、心理医療であるととらえられている。だが、どの生け贄が必要な儀式でも生け贄は必ず清浄なものでなければならない。同じように、ロジオンにとっての予期せぬリザヴェータ殺しは、結果的に「自らが神である」意識をもってして「自らが神でない」無意識を解放するための「儀式」となってしまったのではないだろうか。つまりリザヴェータという聖なる、無抵抗の染み着いた女を生け贄を捧げることによって。
 おそらく、アリョーナ殺しだけでことが済んでいたとしたら、ロジオンは潜在的な信仰心を押し込めて、一時の満足感に酔いしれては、再び自ら選んだ「しらみ」のような人間を殺害、また一時の満足感に身を任す・・・・・・、という無間地獄に墜ちていたのではないだろうか。
 ロジオンは思想自体似通ったスヴィドリガイロフの革命運動を忌避し、かつ、そんな思想を酒場で管まく将校を口先だけと軽蔑し、自らは思想の衣を纏った私怨によって、神となるべくアリョーナを殺した。だが、そこに現れたリザヴェータを殺したことによって、ロジオンは人間、あるいは凡人へと浄化される儀式を引き起こしてしまったのだ。
 浄化されていく過程のロジオンの心境や、その反応は一見、恐怖や彼独特の頑固さが目立つ。だがどうだろう。一歩退いて彼の犯行後の行動をみてみると、どうも懐かしいような気がしてしまうのは私だけだろうか。もっとも、話す内容や、言葉遣いはだいぶ異なるが、自分が行ったことが過ちと分かっていて、諭されるのを待つ子供の反応と似てはいまいか。ポルフィーリィ判事とのやりとりなどはロジオンがやたらとムキになって反論していて、余計にそんな印象を受けてしまう。
 そして、彼を諭すメインの母親役は言わずもがな、ソフィヤ・セミョーノヴナ・マルメラードワとなるわけだが、その妹のポーレチカや、生け贄となったリザヴェータなども聖なるものとして、母親、聖女、あるいは聖母といえると思われる。彼女らは無垢で、聖別されている存在だ。それは肉体の聖性ではなく、魂の聖性という意味で。
 「罪と罰」において、革命は背景としてあったが、他ならぬ「神」は、ロジオンを通じて浮き彫りになった彼女たちに他ならない。だからこそ、物語の最後、ロジオンが丸太に座っているシーンで現れたソーニャの姿はあれほどに、神々しい、もしくは日本画で描かれた幽霊画のような、今にも消えてしまいそうな、幽玄な印象を受けるのではなかろうか。
 人は彼女らを求める。苦しいとき、死の間際、助けを求め、祈りを捧げる。あるいは、自らの罪を告白し魂の救済を求めて。
 
posted by 朱時卍時 at 11:16| Comment(0) | 罪と罰 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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