2010年10月23日

「夜と霧」を観て

「夜と霧/NUIT ET BROUILLARD」1951年・フランス  (アウシュヴィッツ収容所でのユダヤ人の扱いについてを中心に描いた映画)を観て。。。

これほど美しく、残酷な映像を私はかつて見たことがない。
転がった生首が山ほど入った金盥。
うずたかく積まれた遺品の丘。
人体実験された人々。。。

ここには人間が描かれている。人間の本当の姿が描かれている。なのに、どこか現実離れしているように感じてしまうのは、作中に流れている音楽がどこと無く軽妙であることと、私が少なくとも一般に理性といわれるところの自覚できる意識を持っているからだろう。

よくいわれるNazisというのは蔑称だが、周知の通り
その前はNSDAP(国家社会主義ドイツ労働者党)
として国民に支持されていたのだから、人というのは分からないものだ。

こんな事を後にしでかす政党を支持した国民の心境はどうだったのだろうか。1937年の「大ドイツ藝術展」や、「二十世紀最大の欺瞞」と称されたチェコの町の風景。そういったものを眺めて、のほほんとしていたのだろうか。
1942年のワンゼー会議の内容を彼らは知っていたのだろうか。
後に例のチェコの町のPR映画の子供向けミュージカルに出ていた子供達が、二人しか生き残らないのを知っていたのだろうか。

この映画は、人間の無意識の暴走を伝えている。
処刑というサディズム、女性の髪の毛で編んだ織物や処刑者の所有物の偏った収集はフェチズムだろう。
本来は押しとどめられている欲望。

いかに国民や、メディアが国を監視して行くべきか、そんな事を強く感じた。

権力を疑わなければ、裁判員制度による冤罪もふえることだろう。疑わしきは罰せず。が原則の法の下に成り立っている国なのだから、容疑者に有利で検察には不利な視点で本来メディアは報道すべきだとすら私は思う。メディアなんていうのは反体制で丁度いいのだ。そんな風に感じる今日この頃。












多感な時代は過ぎたけど、公共で「fuck」とか「キチガイ」「かたわ」「いざり」「どかた」「めくら」なんていうのを、単に差別語だから使っちゃいけないなんて安易な方法をとらないで、利用形態から吟味して、それが正しければ堂々と使用する、そんなロックなテレビ番組の出現を、やっぱり待ち望んでしまうなあ。。。

さんざんアングラ文化を楽しんだ、今の放送局の上の人たちは私たちにそれを楽しませないなんて、一体何を考えて生きてるんだろう。理解に苦しむ。
posted by 朱時卍時 at 15:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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