2010年09月11日

「テレビドラマにおける愛の限界表現」

「テレビドラマにおける愛の限界表現」   朱時卍時

 愛、とはどこまでが愛なのだろう。可愛さ余って憎さ百倍なんてのはよくある話で、愛故の、DV、殺人、無理心中、食人なんてのは小説のみならず現実世界にも起こりうる話だ。実際、犯罪史に目を通してみると、恋愛や家族愛がこじれた結果引き起こされている犯罪が多く見受けられる。たいていが愛故か、愛足りないが故だ。
 「愛故に」と「愛足りないが故」というのは表現上は真逆のことのようだが、真逆どころか同一のものだ。平淡な言葉となってしまうかもしれないが、有り余る愛も、愛の不足も、愛の奇形児のようなものだからだ。あるいは、大きく育って腐りやすくなった西瓜と、キュウリの様に細く育った西瓜の様なものだ。どちらも市場には出回らないし、出回ったところで、販売したスーパーや農協、つくった農家には苦情がいく。
 歪んだ愛はそれと同じだ。ひとたびそれを社会的に肯定してしまったら、いずれは巡り巡って、その愛の形を生み出した社会や、家庭に世論の矛先は向くだろう。それを避けるため、今も昔も、世の中はそうした異常な愛を極力「排除」しようとしている。
 だが、それは肯定しないだけの話ではないか、たかだかそうと分かったら排除しようとしているだけではないか。異常な愛を抱えたものたちは決して、いなくなっているわけではない。市場に出せない西瓜は、農家の裏の畑で朽ちていく運命かもしれないが、確かにそこに存在しているではないか。
 知っていて否定することと、知らずして否定することでは同じ否定でも大きく意味合いが異なる。なぜ市場に並べることが出来ないのかが分からなければ、そのマーケターの腕もたかが知れているだろう。我々は彼らに出会った際、その形や背景を知った上で否定するべきか否かを自身の内で問うていかなければならない。さもなければ、この末法の世にあって最低限保たれねばならないであろう愛のモラル、いわば愛の均衡さえ失ってしまう。歪んだ愛への無知なる否定の反作用として、捨てられた西瓜達の腐臭は近辺住人の生活を浸食するだろう。
 テレビドラマにおいて、このような奇形の愛について検討することは意義あることと私は思う。
 たとえば、世の中の市場に出ている西瓜はすべて綺麗な見た目をしているだろうか。否。日焼けして妙な色合いになっているものもあれば、実際は微妙に三角や四角のものもある。私たちの中にもちょっとした奇形愛は身近に存在しているのである。閉鎖病棟や刑務所という場所に隔離されるほどではないにせよ、近しいものはすぐとなりにいるかもしれないのだ。
 昔、変態扱いされたSMなどに関して言及すれば、時代的なものもあろうが、「ずっとあなたが好きだった」の冬彦さんがSMにいった影響でボンテージを妻にプレゼントするなんてのは、今ではさして妙なことでもなんでもない。「どれほどの人間がそういったものに興味があるか」ということに興味を持たないから、それが表面化しないだけだ。街の飲み屋じゃ、麻縄で女の子を縛るくらいは教養の一環として身につけているオジサンは意外なほど多いし、近年じゃ取引先との接待の「変わり種」として「SMクラブ」は定番になっているともいえる。
 だがこのSMも度が過ぎれば四肢切断や首締めなどに性癖が移行していく場合もある。ただ縄で縛るにしても、逆さ吊りや捕縄術という拷問を兼ねた縛式に変化したりする。ここまでやってしまう人間がいるというのは知っていて損はないはずである。
 だからこそ、公共の電波を利用するテレビで、人はどこまでやったらアウトかを知らしめねばなるまい。昔はそんなことを伝えずとも良かったのかも知れない。だが、この国は今、少子化に瀕している。兄弟が少ない。おまけに家でこもって遊ぶことが多いし、殴り合いの喧嘩をする機会も減った。こんな世の中で育った人間に「人の道」とその外、「外道」の境界線が分かるのだろうか。
 私は思う。こういった人間が増えたとき、増えていく犯罪は自分を「外道」と知らぬものの邪悪な犯罪であると。要は「罪」の自覚なき犯罪者達が増えていくと思うのだ。現に、近年目にする機会が増えてきた世の中の犯罪を考えてみてほしい。「罪」の意識がさしてないような発言を行う犯罪者が多くないだろうか。
 罪を犯す。というのは人としての領域外を侵すということだ。人でなしになることだ。ただ、そこからもとの「人」へ戻ろうとするものには「人」の心がまだあろう。問題なのは、何が「人」の道で領分かが分からない人間だ。彼らはどうかすると一生「人でなし」の心を抱いて生きていくかも知れない。
 ピーター・ブリューゲルという画家の絵に「盲人の行進」というのがある。盲人達が電車ごっこの要領で行進しているが、先頭がつまづいた為に後方の皆がてんやわんやしているという構図の絵だ。「罪」が何か知らない人間はどうかするとこんな状態になりかねない気がして仕方がない。仲間の誰かが道を踏み外したら一緒に「外道」をさまようのではなかろうか。
 盲人が道を歩くなら、杖がいる。彼らに必要な杖は愛である。家族愛、友愛、恋愛、人としてのの愛の領分を知ることである。そのためには、接する人間はもとより、メディアにおいても、その加減を教える役割が必要であろうと思う。これは公序良俗に反するだとか、放送倫理に抵触するから云々なんてのはくだらないことだ。
 なぜなら、なぜそれが「いけない」のか分からない人間がこれからますます増えるからだ。放送しないことで包み隠し、それに何故自分が嫌悪感を覚えるのかと、これからの人々に自問させないことは戦中に報道がとった「逃げ」の姿勢と変わらない。メディア、放送、テレビドラマをもってして、「罪」を知らぬ人々を正さずして、誰が彼らに道を教えるというのだ。親か? 学校か? 法か? この国か? 親がそれを教えられればそれに越したことはない。だが、親が皆尊敬できる存在でないのは尊属殺人が消えた殺人事件からも分かっている。そういう家庭の人間は何をして人の道を知るのだ? 学校、これは親よりもあてにならない。仁愛を説く良い教師もいることにはいるが、特に小中高校では、たいていが腐敗した学校制度に甘んじて、校内でいばり散らしている井の中の蛙が多い。人の道から外れたものが人道らしきものを説いていることもしばしばである。教師という言葉の意にそぐわないものが多いからこれもまた、人の道を教える機関としては役に立たない。法、法における人の道とはモラルの中での最低限度、社会生活を送る程度のものでしかない。犯罪は犯さなくなるのかもしれないが、それは「罪」の意識からではなくただ「刑」を恐れてのことであろうから、人道を教えてくれるものにはなりえない。国、自治体、公民館、そんなところで人道を教えてくれるだろうか。少なくとも私は教わった記憶はない。地域という意味でなら、よく悪ガキを叱るじいさんなどは近所にいたが、最近ではそういった人の道を他人の子供に教えてくれる大人は減った。
 こんな、人と人との関係が希薄化した世界だからこそ、メディアは人のあり方を伝え、考えさせなければならない。そのためには綺麗なものばかりではダメなのだ。濁った汚らしい、目を覆うような惨劇やどぶ川をも見せなくてはならない。禅問答だって酷いことを行って道を説いているのだ。清濁合わせ呑んで初めてものの善し悪しが判断できるというものであろう。それをメディアが視聴者に問いかけることが出来るかどうかが、この国が、世界が、今よりも良くなるか、悲惨になるかを決めることと私は思う。
 この末法の世で、愛の限界を視聴者に問いかけるような作品こそがこれからは現れるべきである。盲人の行進をつくらぬ為に、また、作り手達が盲人の行進をしないように。



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2010年09月10日

「女装と差別」with Akita Takanori

「女装と差別」 朱時卍時 with Akita Takanori

 身近な差別について私が考えたとき、真っ先に浮かんだのは女装、トランスジェンダーに関する差別性についてだった。それは、自身が女装するということもさることながら、この女装における差別性を考えた際、他の一般的な差別に比べて特殊な形態をしていたからだった。
 一口に女装といっても様々な女装が存在する。ただ女装しているという様相からは想像し得ないほどの奥深さや、人間の浅はかさが入り交じった世界がそこにはあるのだ。姿から簡単に女装の種類を説明すると次のようになる。

○下着女装:男性が女性用下着を着用している状態。

○着ただけ女装:男性がただ女性用の着衣を纏った状態。メイクをしていない状態を指す。一般にこの状態で女性として見られる女装者はまれである。

○完全女装:フルメイクかつ、女性用着衣を纏った状態。この手の女装では女性と見間違えるほど完成度の高い人もいる。一般的に女装とはこの状態をさす。

 他に歌舞伎や暗黒舞踏、バレエなど舞踊における女装、ニューハーフなどがあるが、主な女装の種類としてはこの三種類である。
 これらの女装をする人々の動機をそれぞれ分類すると以下のようになる。

○下着女装:フェティッシュ[下着]、女性用下着の露出愛好、

○着ただけ女装:フェティッシュ[服]、[特定のキャラクターや人物との]同化願望の実現、

○完全女装:フェティッシュ[服」、同化願望の実現、自己女性化愛好症、GID[性同一性障害]、自称GID

 さらにこれらの人々の主な性的な傾向を分類すると以下のようになる。

○下着女装:ノーマル、マゾ、ゲイ[女装者の愛好]

○着ただけ女装:ノーマル、マゾ、ゲイ[女装者の愛好]、同化による自己の恋愛対象化

○完全女装:ノーマル、マゾ、サド、カマレズ[女装者を恋愛対象とする]、バイ、[女装しているがゆえの]ゲイ、[GIDとして]ノーマル、[GIDとして]バイ、[GIDとして]レズ、[GIDを語った]ホモ、[GIDを語った]自己女性化愛好症[自己愛]


 大まかな分類としてはこんな感じである。ぱっと見た印象からも分かるように、一般に女装と呼ばれる完全女装は非常に多くの種類の趣味嗜好の人間が集まっていることが分かる。女装と差別を考えた際、これらのことは最低限知っておかねばならないと考えたので冒頭から無粋ではあるが紹介した次第である。
 さて、女装における差別は約二種類ある。女装を嫌悪する人間からの差別と、女装者内で起こる差別である。前者においては近年ではメディアで女装、ニューハーフを大きく取り上げたこともあって表面上は緩和されている。ただし、そこで注意して欲しいのは緩和されたように見えるこの状況が、場合によっては決定的な差別感情によってもたらされている可能性があるからである。例えば、一般に女装を男性に勧めたり、女装に対して理解があるとされる女性にもその可能性が内在している。社会の構造からしてそれは必然であるし、私としてもその差別性を批判する気はさらさらないのだが、一応言及しておくと、つまりはこんな具合だ。
 男女平等の社会といってもまだまだ女性の立場は弱い、男性>女性だ。しかし、そこに女装した男やニューハーフが入ってきたらどうだろうか。男性>女性>女装者、ニューハーフ、こうなるのではないだろうか。
 女装者やニューハーフは肉体的には普通の男性でありながら女性の格好をしている。それだからいいという人間は多いし、私などもそんな程度で十分と思ってしまうが、中には少しでも女性に近づきたいと体に薬やホルモン剤、メスを入れるものもいる。その場合の彼らの存在は女性という線に近づくが決して到達できない、いわば漸近線。そして、メスを入れた彼ら自身がそれは最も実感していることでもある。だから女性に一生のコンプレックスを負うものもいる。どうかすると女性化自体を人生の目的にしてしまうものもいる。その一方で、社会的に女性として扱ってもらえればいいと、そのコンプレックスを越えて、自身のアイデンティティ確立のもと、人生を普通の人と変わりなく歩んでいこうとするものがいる。これがいわゆるGID[性同一性障害]であり、前者はナルシズムの延長上にある自己女性化愛好症である。
 だがいずれにせよいえること、それは女性からしたら彼らはただの模造品、「女性もどき」でしかないということだ。どんなに女性に近づき、そこいらの女性より圧倒的に美しかったとしても、女性には「女性ではないもの」に対して「女性である」という優位が発生しえるのだ。ちっとも似合ってない女装をした、あるいはさせた男子に彼女らが「かわいい〜」と発言したり、飲み屋にいるニューハーフなどに「キレイー」と言うのは、多くがこのような優位に起因したものではなかろうか。少なくとも、私の知り合いのニューハーフや、女装者から話を聞く限りでは、彼らは女性からの発言にそのような印象を強く受けているらしい。
 一般に女装に寛容とされる女性でさえ、このようなことが起こり得るのである。男性は言わずもがな。きれいな女装やニューハーフに、ただ、女でないと分かっただけで「気持ち悪い」と発言するような男性はまだ世の中には多い。「気持ち悪い」くらい女装に無理解な男性が多いのである。
 この外的な差別について考察すると、よく言われるのは「わりと最近」起こった差別ということだ。それ以前では女装は普通のものだった。古くはヤマトタケルの女装から、歌舞伎、陰間茶屋まで、日本では女装者はどこの町にいてもそれほど妙なものではなかった。変わったのは「明治」からだ。明治政府は性風俗が乱れるとし、女装者を片っ端から逮捕。牢屋に放り込んで、女装を社会的にタブーなものとして演出した。時代が移行し、昭和になってからもはじめ、女装はいけないこととして社会認知されていた。明治政府によって植え付けられた女装への嫌悪感が昭和の中頃までは大分残っていたらしい。戦後になってから新宿ゴールデン街にできた「ジュネ」[現在は意志を継いだ経営者が同じ場所に「ジャン・ジュネ」という店を開いている]などを筆頭に、アングラとしてのポジションではあったが女装コミュニティは拡大を見せ、現代のサブカルチャーというポジションにまで至った。
 だがここには女装における外的差別の触媒的な働きも見て取れる。なぜならば、アングラとされていた時代から現代に至るまで、女装を[明治期につくられた]モラルへの背徳感から行うものが多数存在するのだ。あるいは女性以下の存在に自ら降りていくことによって、女性から虐げられ、快楽をえるものがいる。要は「差別されるから女装する」というものもいるのだ。この場合の差別はいわば「快楽的差別」とも言えるSM要素を多分に含んだものである。この種の差別のあり方は他の差別にも時折見られるが、こと女装の世界ではこの形も多く見受けられるため、あえて取り上げた。
 次に内的な差別についてだが、これには女装者の大多数における、女装ヒエラルキー観が関係している。
 
 ニューハーフ>完全女装>着ただけ女装>下着女装
 
 この中でさらに完全女装内はこのように分類される。
 
 男性が好きな女装者>カマレズの女装者>趣味女[趣味で女装している女装者]
 
 つまり、内的なヒエラルキー観においては女性に近いものほど上位の存在として君臨し、女性から遠いものほど嫌悪されるのである。同じ「女性もどき」の中ではあるが、上位になればなるほど、その女性らしさの追求にはある種の意地が生まれているともいえる。自らの「女性らしくなる」努力に及ばぬものを軽蔑するのだから外的な差別に比べて合理的にも思われるかもしれないが、女装する皆が皆、別に女性になりたいわけではない。皆が皆、女性に憧れているわけでもない。それを考えた際、この女装界のヒエラルキーの上位に属するもの達ほど強く抱いている意地は、下位の女装者にとって押しつけがましい価値基準である。女装はしていても女性を愛するようじゃダメ、女装していると本人は言っているけど「着ただけ」だからダメとあっちゃあ、女装が広く認知され始めた世にあって狭っ苦しくていけない。このような妙なプレッシャーや侮蔑という差別によって、新宿二丁目、六本木をはじめとした大御所の女装クラブに秋葉原を中心とした趣味女が遊びに行きにくい環境が出来てしまっているのは、女装以外の差別においてもよく起こっていることであり、これから女装界の差別が激しくならないことを祈るばかりである。
 このように、女装における差別は外的なもの、触媒的なもの、内的なものとあるわけだが、実はこれと一線を画すものにGIDに関する差別も存在する。もっとも、GIDの方々の中には差別体験を幼少期の時に受けたり、これから受けるであろう社会的差別[就職しにくい、あるいは結婚しにくいなど]への覚悟を持った上で性別変更を考えているなど、精神的にタフな方も多いので、女装界の中でもそれほど差別として表面には出ないが、タフな方がいる一方で、もちろん精神薄弱なGIDの方もいる。これは正確には差別というよりも「セクハラ」に分類されるべきものではあるが、こういった方々がよく直面するのが、例えば「ニューハーフは男根があるからいい」という、女装者を恋愛対象とする男性や女性の、GIDへの誤った理解や、理解力不足による「悪気のない刃」である。GIDで戸籍変更を望むのであれば法律上、性転換手術は必須項目であるのに、それを理解しない人々による、ニューハーフの「両性具有性」を賛美し、その観念をGIDの方々に押しつけるという「無意識の差別」が実際にはあったりする。この場合、ニューハーフ>性別変更したGID、という形式となるのだが、ここで問題なのはここの形自体ではなく、性別変更をまだしていないGIDの方々が出会う、ニューハーフ、女装好きの男性というのが、たいていこのような考えをしているということだ。もちろんGIDのことを理解した上でつき合おうとしてくれる男性も世の中には沢山いるはずだが、GIDの方々が戸籍変更途中で寄ってくる男性はニューハーフだから、女装だからという理由で寄ってくるものが残念ながら多いのだ。このことは椿彩菜がメディアで大きくデビューした際、GIDであり、戸籍変更も済んでいる[少なくとも法律上は]女性が「あえて」ニューハーフと称して「売られて」いたことからも明白である。「GIDで性転換した現、女性」というよりは「ニューハーフ」の方が世間の食いつきがいいからである。このように、GIDにはニューハーフとして扱ってほしくないのに、扱われてしまうということがあり、この状況が結果的にGIDの方々にとって「鉄の処女」、「気づかれにくい差別」となってしまうこともあるのだ。
 最後に、女装と差別についてこれまでつらつら述べてきたが、いっておかねばならないことがある。GID、ニューハーフ含め、女装者は多くの場合、世の中から、あるいはその中で自分達が差別されることは「覚悟」して女装しているものがほとんどである。世の中が自分達を軽蔑していたとしても、100対1の戦いで、自分が1であっても女装する。差別したければすればいい。そんなものは屁とも思わない。それくらいの意気込みでやっているものが多いのだ。ただ、タフなものが多いとはいえ、もちろん柔な女装者もいるし、時々、魔が差して自己嫌悪に陥ることもあるので、そんなときはなるべく優しい言葉をかけてもらえたら……それが、いち女装者の切なる願いである。

 また、参考として、「ファッション化するGID」の方も読んでいただけたら幸いです。



※著作権は朱時卍時に帰属します。無断での転載、コピーを禁じます。





最後に、、、おまけ

「覚悟はいいか? 俺は出来てる(……女装する『覚悟』が!)」 
皆、こんな感じで女装しましょうね☆

ゴメン、ブチャラティ!
posted by 朱時卍時 at 01:21| Comment(0) | 性倒錯 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月26日

みけねこ2

ミケネコ.jpg

ミケネコ、行こうと思ったら閉まってた・・・
平日は一時までみたい。

看板だけ取らせていただきました。

女装と女の子しか入れない週末は盛り上がるらしいです。

女装するしかないかなぁ(笑

あとパスタが500円でたべれるとか。
味はどうなんだろう。
人気なんだろうか。
カウンターバーで女装の方が一列並んでパスタ食べてたら、
なんか厳かな気もするし、
卑猥な気もするし、
ちょっとマニアックな秘密クラブのようにも感じるんじゃあないだろうか。
中に入った瞬間、
パスタをちゅるちゅるしてる女装の方々が、
一斉に首をもたげてこちらを向いたりして。。。

まぁ、最近は可愛い女装子が増えているし、
外見的に驚くことは無さそうだけど、
でもやっぱり、女装の方々の、口の周りについた
パスタソースを舐めとる仕草なんかを一斉に見せられたら、
それは夏目漱石の「夢十夜」なんかの一夜に含まれていてもおかしくないほどの、
奇妙なエロティシズムがあるような気がする。
豚に舐められる恐怖、
あるいは、
悟れない武士の、切腹への想い。
posted by 朱時卍時 at 11:32| Comment(0) | 性倒錯 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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