2011年04月28日

たまには書評など。その2

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マイノリティについて調べていた際に出会った本。



「『性別がない!』ということ。」[新井祥・株式会社ぶんか社・2009/4/20]



インターセックスの著者が自身の体験や、セクシャルマイノリティの友人との交流、社会におけるセクシャルマイノリティの立ち位置などを分かりやすく綴った本だ。
 この本の最大の特徴はその読みやすさにある。著者がマンガ家であるためか、ふんだんにイラストが用いられ、一般に理解されにくいセクシャルマイノリティのイメージが掴みやすい。その上、軽妙な語り口で文章自体に飽きがきにくい。しかも、一章節が短いので時間が空いたときに気軽に読めるときているのだ。私が知っているセクシャルマイノリティ系の本の中では相当に一般向け、初心者向けの本であるように思う。
 経験からして性同一性障害、セクシャルマイノリティなどを扱った本は題材が題材なだけに重々しく、あるいは学術的側面を多分に含んでいるものが多いのだが、この本は違う。ある意味真逆のポジション。気軽におっさんと話したような読後感。しかし、それ故に生々しい。
 セクシャルマイノリティに興味のある人はもとより、むしろ興味のない人こそ是非読むべき一冊である。
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たまにはブックレビューなど。その1


 「意志と偶然」著:ピエール・ブーレーズ/1977/法政大学出版局





 この本は、作曲家、指揮者であるピエール・ブーレーズと、音楽学者セレスタン・ドリエージュの対話を収録したものだ。それまでされてきたブーレーズ批評の誤解を本人が弁明する一面、また、ドリエージュの順を追った問いに答えていく中で、ブーレーズ自身が半生を振り返る場面など、ただの音楽論を交わした記録というよりも、ある種の告白本めいた一冊であるとも受け取れる。
 中でも、一際目を惹いたのが、代表作「二つのピアノのための構造 Structures pour deux pianos」に対する自身の評の一行だ。
 
「[ドリエージュ]奇妙なことに、すでにあなたがヴェーベルン的音列技法をその機械性のために否認しておられたのにもかかわらず、[二つのピアノのための構造]はまず一つの素材の呈示で始められていますね。

ブーレーズ ロラン・バルトの表現を借りると、私はそこで書法の零度という実験をやったのです。」
 
 ロラン・バルト! 実に懐かしい名前の出現に、私は胸が高鳴るのを押さえられなかった。「書法[エリクチュール]の零度」日本語に訳されたものは、「零度の文学」[ロラン・バルト/1993年第8刷再版/現代思潮社]。大学受験の際に戯れに読んだ本の中の一冊だった。
 その内容は現代の欺瞞に陥った小説が本来の文体の形を取り戻すためには、職人的な「削る」作業をもってして欺瞞への「贖罪」をするべき、というものだったような気がしたのだが、改めて読み直すとそれは一面的なものだけだったようだ。
 ブーレーズがいうところの「書法の零度という実験」は何をさすのだろうか。
 読み直した「零度の文学」によれば、まず、文学に含まれる三つの要素、言語体、文体、文章はそれぞれ別のものであり、性質、特質が異なる。これは、音楽、ブーレーズの「構造」やメシアンの「音価と強度のモード」でいうところの音階、音の長さ[それとアタック]とそれによる「旋律」が相当するように思われる。
 「零度の文学」の評「零地点の探求」[モーリス・ブランショ/「零度の文学」に収録]では、「零度の文学」の内容が簡略に述べられているので、そちらから引用したい。
「言語体とは、時間のある瞬間において、世界のある場所へのわれわれの帰属に応じて、われわれ全体の各々に与えられるようなかたちでの共通の語りの状態である。」
「文体はどうかといえば、血とか本能の神秘に結びついた暗い部分であり、激しい深みであり、イメージの濃密さであり、われわれの体、われわれの欲望、われわれ自身へと閉ざされたわれわれの秘密の時間の好みが盲目的に語るところの孤独の言語だということになる。」
「文章とは、表現しようと思うことや表現の仕方からは独立に、次のような出来事、すなわち、書かれるものは文学に属するのであり、それを読む者は文学を読むのであるという作法の総体、つまり明らかな、あるいはひそやかな礼式なのである。」
 言語体、文体を音楽に置き換えてみるならば、それらは音階や音の長さ、つまりは楽譜に刻まれる音符や多くの記号や図形、果てはフーガなどに代表されるの楽譜の構造的なありかたということになろうか。それ単体で意味を持つものではなく、この時点ではまだ音楽ではない。
 文章を旋律、文学を音楽、書くことを演奏することとすると、
「[演奏による]旋律は表現しようと思うことや表現の仕方からは独立に、次のような出来事、すなわち、演奏されるものは音楽に属するのであり、それを聴く者は音楽を聴くのであるという作法の総体、つまり明らかな、あるいはひそやかな礼式なのである。」
 となろうか。だが、これではいささかお粗末な感が否めない。この時点ではただの分類にすぎないせいもあるだろうが、文学でこのことが見えにくいにしても、音楽においては長年わりかし明白なものとして呈示されてきたことだし、あるいは、音楽は楽譜が出来、室内のBGMから脱し、コンサートホールで聴かれるようになって以来、そおの分類の意味合いにおいては、ある種のデモンストレーションを行ってきたとともいえるからだ。
 本題はこの前提をふまえた上でロラン・バルトが指摘した次のことである。
 「文章がみんなにとって同一であって、無邪気な同意によって受け入れられていた時代があったという指摘である。そのときすべての著作家は、一つの心づかいをしかもっていなかった。それは、うまく書くということ、すなわち、共通の言語体を、完成の最高段階へ、あるいは自分のいわんとすることとの合致へともたらすということなのである」ここまでは音楽でいうところの調性が築かれていった時代のことだろう。さらにつづく。
 「今日においては、もはや同じ事態ではない。本能的な言語によって互いに区別される著作家たちは、さらに余計、文学的礼法に対する彼らの態度によって対立する。書くということは、生まれの権利により肉体的宿命によりわれわれのものになっている言語からは独立に、若干の慣習とか、暗黙の宗教とか、われわれが語りうるすべてのことをあらかじめ変え、自白されないものであるだけに、ますます活動的な意図をそれに負わせるところのざわめきとかをわれわれに課する境域のなかに入ることであるが、また一方、書くということは、寺院を建設する前にまずそれを破壊しようとすることであり、少なくとも、その敷居を越える前に、そのような場所の隷属状態、そこに閉じこもろうという決心が構成するであろうところの本来的な誤謬について自問するところである。書くということは、結局、敷居を越えることをおのれに拒否する事であり、「書く」ことをおのれに拒否することなのである。」
 これは、当時から現代にかけての文学が陥っている病であり、同時にもっとも文学が鼻にかけている「統一性」の失われた状態のことだ。さらには、文学が表現として立ち現れた瞬間、読者に共通の、慣習、暗黙の宗教観を投影し、投影したことによって表現自体の質が変質し、この表現が極めて独立された表現であることを知った表現者がこの変質させる世界を振り切って、新境地を求めて表現に努めること、また、その新境地の設立のために今ある既存の世界を壊滅させることが表現者の心の奥底で求めているものであることを示している。そこから、文章も、文学も、それが投影される世界さえも否定された場所で文学を確立すること、それこそが「文学の零度」であることを示している。
 すべてを否定することによってすべてを肯定する世界を再定義するという一部分における意味ではこの「文学の零度」はニーチェ的であるともいえるかもしれない。完全なる否定は完全なる肯定へといずれ推移する。「文学の零度」はその全否定が全肯定へとスイッチする狭間の零地点を指すのだろう。
 このことは、本文中でブーレーズが述べている文明観と一致する。
「私は保存しようとする方向に向かう文明は、それが前進することに恐怖を持ち、自らの未来よりは自分の記憶の方に多くの重要性を与えるという理由で、凋落する文明だと思います。力を蔵した文明は、記憶を持たぬ文明です。すなわち、それは拒否と忘却の文明なのです。」
 自らが発する新しい世界が、過去に取って代わる自身さえあれば、過去を破壊することもできる。と彼はいっている。
 「文学の零度」としてのブーレーズの試みは、本人が作中で語るところによれば、音楽的諸関係の自律性がどこまでいけるかをみようとしたこと、既存のメシアンの「音価と強度のモード」の素材という発明を使用すると同時に一切の個人的発明を否定して、素材の置き換えに専念したことが書かれているにすぎない。
 しかし、この「構造」についての一言はそれ以上のこと、意味合いが含まれていると考えざるをえない。先に記したように、ブーレーズは「拒否と忘却の文明」の支持者であり、彼は論文中「オペラ座を爆破せよ」や「シェーンベルクは死んだ」などの表現も[好んで?]使用している。全否定からの全肯定の世界の切り替わる切っ先を彼は見ていた。そして「二つのピアノのための構造」はまさしく、その切っ先を目指したものではなかったろうか。
 おそらく、彼はこの楽曲を持ってして「全世界の否定」から、「全世界の肯定」という「天国」あるいは「宇宙の再構築」を目指したのだ。「二つのピアノのための構造」は、この世を「天国」へ導くブーレーズ自身の表現者としての理想が詰め込まれていた。そう、それはきっと彼が望みを託した「零度の音楽」というバイブルだろう。
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2010年09月10日

「罪と罰〜幻と幽霊〜」※ひさびさの長文(笑

「罪と罰〜幻と幽霊〜」     朱時卍時

 幽霊を信じるか否か。という話題は、いつ頃からあるのか定かじゃないが、よく居酒屋なんかで話題にのぼる。特に夏場は多いが、この二一世紀の世にあってもそんな話題でもそこそこ盛り上がるのだから、人というのは根本的にここ数千年くらいじゃ変わっていないのかもしれない。
 こんな話題の時にはどうかすると「実は見える」なんていうヤツが現れることもあるが、そうなると周囲の人間はそいつの話をどの程度真実味があるか吟味し始める。まあ、その話を聞いて、それまでの自分の体験や認識と比べ、幽霊がいるかどうかを各々心中検証してみようというような心境で聞いたりするのだ[そして自分がそれらしい体験をしていたら、それをそいつの次に語ろうと心待ちにする]。その場合、たいてい三つの人間に分かれる。信じようと思うもの、信じてはいないが幽霊にいて欲しいと願うもの、全くもって信じていないもの。「罪と罰」の登場人物、アルカージイ・イワーノヴィチ・スヴィドリガイロフにとって「幽霊」は存在するもので、かれは「見える人」だった。
 彼が見る幽霊[プリヴィデーニエ]、マルファは彼の元妻で地主だった。たいそう金持ちで、革命に身を捧げるスヴィドリガイロフにとって、彼女との結婚はただ、その財産を得る手段にすぎなかった。憎むべき支配階級と戦うために金が必要だったのだ。だから彼はマルファを殺すとき躊躇しなかった。彼女の遺産を得るための殺人は、革命に必要な殺しのうちの一つにすぎなかったのだ。
 だが、彼はマルファを弔ったその日から、彼女の幽霊に出会うことになる。もっとも、出会ったところでそのマルファが彼に言うのは、食堂の時計を巻くのを忘れていましたね、とかそんな日常のささいなことなのだが。考えてもみて欲しい。この状況! なにもしていない人間が一見すると、こんな幽霊が出てきても別段怖い印象を受けないかもしれないが、彼にしたらちょっと前に自分が殺した相手が、平然と日常の会話をしてくるのだ。恨み言や、罵声を浴びせられるなら、まだ心の構えようもあろうが、そうじゃない。ただ、平然と、いそがしくって時計を巻くのを忘れましたね、とか、トランプ占いをしてやろうか、なんてことを話すのだ。これはたまったものじゃあないだろう。
 一方でこの話を聞いていた主人公、ロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフはスヴィドリガイロフに対して、幽霊見たなんて嘘じゃないの? 医者に診てもらったら? 誰が信じるかよ、と直接本人に言った挙げ句、心の中では「この男は気違いだ」と呟くのだから、まあ、ひどいものだ。だが、スヴィドリガイロフにそんな反応を示した彼も、心の底から幽霊を信じていないわけでもなさそうだ。いわば、スヴィドリガイロフを「見える人」で「信じている人」とするならば、彼は先に挙げた「信じていないけどいて欲しいと願う」タイプの人間だ。そのことはスヴィドリガイロフに、奇跡を信じているくせに認めない、なんて主旨のことを言われていることからも察することができる。また、彼が老婆アリョーナ殺しを決意するきっかけとなった「そっくりな思想を持つ将校」と偶然酒場で出会ったことを「不思議な暗号[運命]」として、捉えているところなんかは若干の神秘主義っぽさを感じる。
 それになにより、彼は、彼自身はそれを幻と呼ぶのかもしれないが、変なものをチラチラ見ているようだ。「幽霊が見えてるけど認めたくない」といったところか。もっとも、このような心理は巷にいる「見える人」にも働くようで、幽霊を見たとき、見えてるけど見えないふりとかをしたりするらしい。彼も、そうだったのだろうか。センナヤ広場で額づいた後、警察署へ行く途中、「一つの幻」がちらと目をかすめたのに彼はそれに驚く様子もなく、「そうあるはずのもの」として感じている。このシーンではそれまで見えていたが認めていなかったものを、いるものだと認めた印象を受ける。
 では、その彼が認めた「幻[ヴィデーニエ]」はなんだったのだろうか。その後、警察署を「運命の場所」と感じさせた幻。奇跡を信じていない人間がそれを信じるようになったという意味合いからは、その幻がイエス・キリストその人であったという考え方が一つ、できると思う。「流血を犯したにも関わらず罪の意識を持たない不信心のもの」ロジオンの信仰[あるいは善意]への回帰[目覚め]を暗示させる幻としてのキリストだ。また、おそらくはその幻とともにロジオンを背後から見つめていた、信心深き聖なる娼婦、ソフィヤ・セミョーノヴナ・マルメラードワの姿も、彼の進むべき道を照らす、女神のような存在であったかもしれない。いや、場合によっては彼女自身がひょっとするとキリストなのかもしれない。
 そうなると、物語の最後、罪の意識を獲得し、愛が何かを知ったロジオンが抱きついた膝の持ち主はただのソーニャではない可能性もある。キリストの御霊がソーニャの姿を借りて、彼に「救いと許し」を与えたのではないか。ソーニャの青白いとか、やせて頬がこけているとか、おずおずと手を差し出す様とかは、何となく磔刑に処されたキリスト像を思わせる。
 ロジオンの見た幻。スヴィドリガイロフの見た幽霊。この二つは端で見ている私たちからすればどっちも幽霊じゃん、ということにもなろうが、性質からすると少々異なるような気もする。スヴィドリガイロフのは直接的な表現としてはないものの、圧迫感を結果として与えているような気がしてしまう。一方でロジオンのものはどこか、導くような気配がする。この違いはなんだろうか。
 個人的にはこの差は信仰心に基づくもののような気がする。つまり、奇跡と神を信じた革命家は、その信仰心故に、心の底では、実は罪の意識に苛まれ、なき妻の亡霊を見たのではないか。もしかすると彼が見ていた幽霊こそ、幽霊ではなく、彼の潜在意識下の良心の呵責によって引き起こされた幻ではなかろうか。そして、信仰心無きロジオンの見た幻こそ、「人でなし[あるいは獣]」のロジオンを「人」へと導くべく現れた精霊、幽霊ではなかろうか。
 人は人であるが故に罪の意識によって罰せられる。罪の意識がなくして罪を犯すものは、それは人とは呼ばない。それこそ、ロジオンが持論の中で「しらみ」と軽蔑していた類の人間か、獣だろう。いわゆる人でなしだ。ただ、ロジオンはソーニャによって、キリストの霊によって救われた。老婆アリョーナを殺害した彼自身が「しらみ」に違いなかったが、自分を「しらみ」としり、そこから這いあがろうとした。獣や人でなし、「しらみ」から這いあがろうとするもの、それはもう、「人」なのだ。
 そう、「罪と罰」は「人でなし」が「人」になる話だと私は思う。ソーニャや他の登場人物によって、一匹の獣が人間になる話だ。あるいは、親切な幽霊によって悪い夢から目覚める話。「罪と罰」に現れた幻は今、この日本で増えつつあるロジオンが犯したような犯罪をどう思っているのだろう。


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posted by 朱時卍時 at 01:06| Comment(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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